足立朝日

空襲に耐え70年

掲載:2005年12月5日号
  

 午後3時。開店と同時に入浴券やお金を握り締めたお年寄りらがのれんをくぐってくる。足立区千住元町の銭湯「タカラ湯」。現在の場所に店を建ててから再来年で創業70年になる。空襲にも耐えた建築様式は当時のままである。
 かつて銭湯は「極楽浄土」をイメージして建築されたという。タカラ湯も「千鳥破風」と呼ばれる三角屋根の建築様式。入り口にある七福神も、「福を招きたい」という思いがこもっている。
 「父は『律儀』とか『実直』という言葉を絵に描いたような男でした」。店を切り盛りする長男の松本康一さん(55)と次男の益美さん(53)は言う。父が戦時中から書いた日記を読むと、空襲ではもっぱら銭湯が狙われたことが分かる。高い煙突が工場と間違えられたからだ。戦況が厳しくなり燃料不足が深刻化すると、父は大八車を引いて、近所の革靴工やベニヤ工場に靴の木型や、おがくずなどをもらいに行った。空襲警報のサイレンが鳴ると、裸のまま湯船を飛び出して逃げる客もいたという。
 1945年3月10日未明B29の大編隊が東京上空に現れた。群集めがけて焼夷弾が雨のように降り注いだが、「タカラ湯」は奇跡的に焼け残った。終戦の翌日にあたる8月16日に営業を再開した。「体がきれいになれば、心もきれいになる。これからはどんなことがあっても店を続けないといけない」と父は家族に語った。
 昭和30、40年代の最盛期には朝6時から夜の12時まで営業した。周囲に町工場が多かったため、職人さんなど客は途切れることなく、1日に2千人を超える日も珍しくなかった。最も多い時は千住地区だけで35店を数えた銭湯も今では14店と激減。入浴料金も平成に入って260円になり、今は400円だ。料金は据え置かれているが、イラク戦争による重油価格の高騰などもあり、経営は確かに厳しい。
 しかし、集客のためのユニークな取り組みが行われている。大ヒット曲、マツケンサンバにちなんだ「お風呂サンバ」教室や、マジックショー、落語などの演芸会が来場者を楽しませる。「タカラ湯」でも変わり湯が行われ、足立区の友好自治体である長野県山ノ内町から送られたリンゴを湯船に浮かべたりしている。
 父が亡くなって11年。後を任された康一さんと益美さんは話す。「銭湯は公共的な財産。人々が集い、歓談する。高齢化社会において、その役割がもっと見直されていいのではないでしょうか」


戦争が終わり、タカラ湯にも
平和が戻った
銭湯は地域の社交場でもあった