斉藤 亥之助画伯(90)
西綾瀬在住
強運の足立区の亥(いのしし)「卒寿展」
90歳にして、女性ヌードを描き続ける斉藤亥之助画伯。最近作は100号の『オスプレイと女』。頭上を飛ぶオスプレイを見上げる無邪気な現代っ子のクリクリとした瞳と、豊かな乳房が美しい。同作品は、5月18日~5月26日にかけて六町ミュージアム・フローラで開催された「斉藤亥之助卒寿展」(主催=斉藤亥之助先生の卒寿を祝う会/足立美術協会、後援=足立区・足立区文化団体連合会・群炎美術協会)にお目見えした。会場入口には山や海、ヨーロッパの街景を描いた風景画が並び、進むにつれて斉藤ワールドが展開。
全113点の一番奥には、画伯の一番思い出に残る裸婦画『女』(写真)と、女性をありとあらゆる角度から描いた作品群。その迫力は凄まじく、女性のエネルギーがほとばしっていた。「僕は絵の世界で『裸の斉藤』なんて言われているから、僕の風景画を観てビックリする人が多いけれど、風景画も得意なんだよ。大体2時間で仕上げるの。だって、冬山は寒いでしょ」と茶目っ気たっぷりに話す。
千住育ちの画伯であるが、家の事情で幼少時に関原へ転居し、卒業後は質屋に丁稚奉公。その支店時代に、店主の理解と、関原小学校時代の恩師・坪谷ウチイ先生のアドバイスがあり、夜間の中学4年に編入。さらに専修大学に進学し、画伯の人生は大きく開き始めた。その後は、関原小学校と栗原小学校に計40年間奉職。加えて、足立美術協会・群炎美術協会設立に奔走。足立区文化団体連合会設立にも参加し、足立区の文化発展に尽力し続けている。今年から再び、群炎美術協会の会長も務める。
戦時中、病身の母親と4人の妹を支える立場を理解した軍医の判断で、徴兵を免れた画伯がいつも思うのは、自分の人生の「強運」と「教育の大切さ」。「坪谷先生との出会いにより今の自分がある」との思いで恩師を探し続けたが、再会が叶わなかったことが何よりも悔しい。画伯は、周囲への感謝とともに、足立区の亥として言うべきことは言う生き方を貫き、今日も精力的に絵筆を握る。
西綾瀬在住
強運の足立区の亥(いのしし)「卒寿展」
90歳にして、女性ヌードを描き続ける斉藤亥之助画伯。最近作は100号の『オスプレイと女』。頭上を飛ぶオスプレイを見上げる無邪気な現代っ子のクリクリとした瞳と、豊かな乳房が美しい。同作品は、5月18日~5月26日にかけて六町ミュージアム・フローラで開催された「斉藤亥之助卒寿展」(主催=斉藤亥之助先生の卒寿を祝う会/足立美術協会、後援=足立区・足立区文化団体連合会・群炎美術協会)にお目見えした。会場入口には山や海、ヨーロッパの街景を描いた風景画が並び、進むにつれて斉藤ワールドが展開。

千住育ちの画伯であるが、家の事情で幼少時に関原へ転居し、卒業後は質屋に丁稚奉公。その支店時代に、店主の理解と、関原小学校時代の恩師・坪谷ウチイ先生のアドバイスがあり、夜間の中学4年に編入。さらに専修大学に進学し、画伯の人生は大きく開き始めた。その後は、関原小学校と栗原小学校に計40年間奉職。加えて、足立美術協会・群炎美術協会設立に奔走。足立区文化団体連合会設立にも参加し、足立区の文化発展に尽力し続けている。今年から再び、群炎美術協会の会長も務める。
戦時中、病身の母親と4人の妹を支える立場を理解した軍医の判断で、徴兵を免れた画伯がいつも思うのは、自分の人生の「強運」と「教育の大切さ」。「坪谷先生との出会いにより今の自分がある」との思いで恩師を探し続けたが、再会が叶わなかったことが何よりも悔しい。画伯は、周囲への感謝とともに、足立区の亥として言うべきことは言う生き方を貫き、今日も精力的に絵筆を握る。