足立朝日

集団疎開体験記(1)

掲載:2008年8月5日号
◆◇集団疎開体験記(1)
柴原 保佳

 本紙「あだち俳壇」の選者・柴原保佳氏の集団疎開についての体験記を5回にわたり連載します。語りつがれることの大切さとともに、懐かしさを憶える読者も多いことと思います。8月15日の終戦記念日を前に第1回目を掲載します。
 昭和19年、第二次大戦の激化にともない、足立区でも長野県のお寺や山間の温泉宿に集団疎開をすることになった。
  私たち、千寿第四国民学校(千四小・現常東小)は、長野県の善光寺境内に並ぶ宿坊に決まった。宿坊というのは善光寺に参詣する信者の団体を泊める寺宿のことである。
  私は当時6年生だったが、親元を離れてどんな処でどんな生活をするのか、全く見当がつかなかった。
 今日、山中湖や日光などの移動教室というのがあるが、それと同じように親しい友達や、クラスの殆んどの人たちが受持の先生と一緒に出掛けるということなので、遠足にでも行くような楽しい気持ちだった。今から40年も前のことを思い出すのは難しい。多少の記憶違いなどもあるかも知れないが、本当に印象に残ったことだけを、たどたどしい筆でお話してみたいと思う。

1 宿坊生活
 出発の日は確か8月の15日だった。その時の荷物は絣の防空頭巾に教科書やノート類を入れたリュック、水筒、そんなものだったと思う。衣類、日用品その他を入れた行李(竹で編んだ箱)は、先に送っておいた。
  上野からの夜行列車で翌朝、お寺のような屋根の長野駅に到着した。そこからあの長い上り坂を善光寺に向って歩いた。背中や両手の荷物がとても重く、子供ながらに肩を凝らせた記憶がある。
 常住院とか正信坊などと言う二院三坊に分かれたが、私等が寝泊りすることになった宿坊は蓮華院と言った。木造三階建、50畳の部屋が3つもある大きな宿坊だった。この建物は釘を1本も使わないで建てた寺ということが和尚さんの自慢だった。この宿坊が千四疎開児童の本部になった。色の白い品の良い和尚さんが、僧衣のまま庭に並んでいる私たちに「あなたたちは日本小国民の一人として頑張るように」というような力強い挨拶をしてくれた。
  東京では狭い家に暮していたので50畳という部屋は本当に広く感じた。部屋に入るなり運動場のように駆け出したり跳ねたりして、先生や寮母さんに叱られた。
 蓮華院の生徒は男子ばかり60名程だった。男の先生が3人と寮母さんが3人だった。6名程の3年生を、6年生の班長が面倒を見るというかたちだった。その班が9つあった。荷物は部屋の隅、床の間などを自分の置場所と決めた。
  行李の蓋を反対にして2段重ねとし、そこへ持ってきた学用品、教科書などを入れた。
  食事は別に30畳ほどの広間があって、寺の人たちが忙しく階下から持ち運ぶ。食糧難の時なので、何と言っても食事が楽しみだった。
  丼は生徒各々が持ち寄ったものであるが、飯の量は茶碗一杯をアイスクリームのように丸く置いただけである。どれも量が決まったようなものだが、丼によってそれが多く見えたり少なく見えたりする。
 食事の合図があったら素早く部屋に入ったものが、一粒でも量の多い丼の前に座ることが出来る。おかずは今日のように多くない。味噌汁と野沢菜は必ずついたが、煮物や時により鰯の丸干しが一尾つく程度だった。鰯を頭ごと食べることはこの頃におぼえた。
 食事の前に手を合わせて「着とうば、天地(あめつち)神のおん恵み・・・」と合唱して食べ始める。ひと口のご飯を百回噛んで食べるように指示された。毎日おかゆを食べているようで消化がよく、すぐ腹が減った。育ち盛りの子供たちにとって、修行僧と同じような一汁一菜の食事では何んとしても足りなかった。