◆◇集団疎開体験記(3) 芝原保佳
4 ホームシック
初めのうちは元気のよかった子どもたちも日を追うに従ってホームシックにかかってきた。夜寝床に入ると、しくしく泣き出す者が多かった。私は用を頼まれて長野駅の近くまで行くと駅に寄っては、上野行きの汽車を眺めた。その汽車に飛び乗って東京へ帰りたいと何度思ったか解らない。事実、一人で汽車に乗り込んで松本駅で見つかり、寺へ戻された子どももいた。誰も彼も東京の家に帰ることが夢であった。
私は、時折、50畳の部屋の畳数を6つに数えた。東京の家の今の大きさに見立てて、ここに箪笥がありここに仏壇がある。そしてこちら側から母がお勝手の物を運んでいた、ということを想像した。大広間から見ると、6畳間は、ままごとの部屋のように小さい。しかし自分の育ってきた6畳間は、無限に広かったように思う。
また、納豆、豆腐、海苔、切干の煮物など両親や兄弟を一緒に楽しく食べている夢も何度か見た。眼が覚めて悲しさがこみあげ、布団に深く顔をうずめたこともあった。
家へは時々手紙を書いた。父や母からすぐに返事がきた。父の字はいつも筆書きで旅先からくれたものが多かった。崩し字なので私には読みにくかった。その上、文の終わりに必ず俳句が1つ2つ書いてあった。今でもその葉書を見ると当時のことが思い出されて懐かしい。
5 母からの小包
近所に幼なじみの女の子がいた。その子の母親が或る日面会に来たついでに私に小さな紙包みを渡してくれた。皆の前で荷を解くことはできないので、夜布団を敷いてから、こっそりと小包を開けた。
母からのもので「わかもと」という薬が入っていた。箱を開け瓶を見るとなにやら白い粉が詰まっている。一寸なめてみると甘い。砂糖だった。菓子というものが殆どない時代だったので、貴重品だった。郵便で送ってきた場合は規則によって中身を点検される。皆、苦しいときに一人の子どもだけ菓子をこっそり食べるということは当時は許されなかったのだ。他人に託した上、薬瓶ならば検べまいと考える親心であった。この砂糖は班の人たちには少しずる分けてやった。
6 面会
当時の事情で、1度には面会にこられず、5、6人程度の父母が代わる代わる長野市へきた。私の母は何日面会に来てくれるのか解らなかった。
そのうち蓮華院の子どもの親たちがぽつぽつ来るようになった。大抵は着物を着てモンペを履き、大きなリュックを背負っていた。母も恐らくああゆう格好で来てくれるのだろう。そう思うと居ても立ってもいられないほど待ち遠しかった。
母が面会に来たのは秋も深い日曜日だったと思う。やはり私が想像していたような和服姿に、白いリュックを背負っていた。正直に言って、その時ほど母を美しく感じたことはない。女神のようだった。母と2人で話したいことが沢山あったが、どうゆうわけか時間が忙しく、何か気兼ねをしながら話さなければならない。
4 ホームシック
初めのうちは元気のよかった子どもたちも日を追うに従ってホームシックにかかってきた。夜寝床に入ると、しくしく泣き出す者が多かった。私は用を頼まれて長野駅の近くまで行くと駅に寄っては、上野行きの汽車を眺めた。その汽車に飛び乗って東京へ帰りたいと何度思ったか解らない。事実、一人で汽車に乗り込んで松本駅で見つかり、寺へ戻された子どももいた。誰も彼も東京の家に帰ることが夢であった。
私は、時折、50畳の部屋の畳数を6つに数えた。東京の家の今の大きさに見立てて、ここに箪笥がありここに仏壇がある。そしてこちら側から母がお勝手の物を運んでいた、ということを想像した。大広間から見ると、6畳間は、ままごとの部屋のように小さい。しかし自分の育ってきた6畳間は、無限に広かったように思う。
また、納豆、豆腐、海苔、切干の煮物など両親や兄弟を一緒に楽しく食べている夢も何度か見た。眼が覚めて悲しさがこみあげ、布団に深く顔をうずめたこともあった。
家へは時々手紙を書いた。父や母からすぐに返事がきた。父の字はいつも筆書きで旅先からくれたものが多かった。崩し字なので私には読みにくかった。その上、文の終わりに必ず俳句が1つ2つ書いてあった。今でもその葉書を見ると当時のことが思い出されて懐かしい。
5 母からの小包
近所に幼なじみの女の子がいた。その子の母親が或る日面会に来たついでに私に小さな紙包みを渡してくれた。皆の前で荷を解くことはできないので、夜布団を敷いてから、こっそりと小包を開けた。
母からのもので「わかもと」という薬が入っていた。箱を開け瓶を見るとなにやら白い粉が詰まっている。一寸なめてみると甘い。砂糖だった。菓子というものが殆どない時代だったので、貴重品だった。郵便で送ってきた場合は規則によって中身を点検される。皆、苦しいときに一人の子どもだけ菓子をこっそり食べるということは当時は許されなかったのだ。他人に託した上、薬瓶ならば検べまいと考える親心であった。この砂糖は班の人たちには少しずる分けてやった。
6 面会
当時の事情で、1度には面会にこられず、5、6人程度の父母が代わる代わる長野市へきた。私の母は何日面会に来てくれるのか解らなかった。
そのうち蓮華院の子どもの親たちがぽつぽつ来るようになった。大抵は着物を着てモンペを履き、大きなリュックを背負っていた。母も恐らくああゆう格好で来てくれるのだろう。そう思うと居ても立ってもいられないほど待ち遠しかった。
母が面会に来たのは秋も深い日曜日だったと思う。やはり私が想像していたような和服姿に、白いリュックを背負っていた。正直に言って、その時ほど母を美しく感じたことはない。女神のようだった。母と2人で話したいことが沢山あったが、どうゆうわけか時間が忙しく、何か気兼ねをしながら話さなければならない。